エッセー | 一瞬のホンジュラス

一瞬のホンジュラスV
-ムイ・ボニート(本当に素敵)な国-
 -2007年-

よろいを脱ぐとき

 ヒューストンの空港はいつもひんやりと静まりかえっています。中米ホンジュラスへ向かう中継空港として毎回ここを訪れる私にとって、その光景は常に感慨深いものがあります。日本から訪れる私にとってここに満ちている空気は、生まれ育ったまち東京にも似ていて、ごく自然に受け入れ振舞うことが出来ます。全館エアコンで調整された快適な空間、ちりひとつ落ちていないほどに磨き込まれた広大なフロア、効率よく機能的に計算し尽されたサービスの数々、きらびやかに彩られて立ち並ぶ有名高級品店の連なり…。そして世界中から集まってきている旅行者たちは、誰もが一律の落ち着きと共通の距離感を保ったまま静かに行き交います。ここは先進国と呼ばれる国々に生まれ育ち暮らしている人々に共通した、無言と無表情の装いで他者との距離感を保つことを前提とした、暗黙の掟のようなもので満たされています。
 しかしこの4年間、ラテンアメリカの最貧国ホンジュラスと深く関わり続けてきた私の中には、この暗黙の掟を自分の感覚として生きることに対する言いようの無い抵抗感と違和感が芽生えてきました。ここヒューストンの空港を背にして翌日向かうホンジュラスという世界を目の前にした時、何か決定的な分かれ道のひとつを選択して行くような感覚に迫られるのです。
 やがて飛行機がホンジュラスの空港に滑り込むと、私はそれまで身に付けていたジャンパーとシャツを否応なしに脱ぎ捨てます。それらの防寒具はもはや不要です。この国では素肌にTシャツ一枚で生活できるからです。空港のロビーに出るとラテン独特のリズムにのった陽気な音楽の大音響にあっという間に包み込まれてしまいます。そしてごった返す無秩序の群集のざわめきと、南国の生々しい熱風が漂うロビーの喧騒のただ中で、弾けるように明るいシスターたちのかけ声が私の目の前に飛び込んできます。
 
「オーラ、マリオー!!!ビエンベニードー!!!」(まりおぉぉぉー!!!お帰りぃぃぃー!!!)。

 
そのかけ声は私の五臓六腑に響きわたります…。そしてそのかけ声で私は「あぁ…帰ってきたんだぁ…」と実感するのです。
 
私はいったい何処へ帰ってきたのでしょうか…。


南国ホンジュラスの街並み


「ムイ・ボニート(本当に素敵)」な国

 ホンジュラス人の多くが「この国はムイ・ボニート(本当に素敵)だろ?」と言います。しかしこの4年間、現地のシスターたちと共に続けてきた貧しい人々に対する支援活動のさなかで、世界の中の「最貧国」と呼ばれるこの国の、全く手の付けようも無い深刻な諸問題の山積をつぶさに見てきた私にとって、彼らの言う「ムイ・ボニート(本当に素敵)」なことが一体何なのかよく分かりませんでした。それらの深刻な諸問題は、まるでこの国全体の姿を表す唯一の代名詞のようにさえ感じられました。しかしそれらの代名詞を用いてこの国を語り、ひたすらに見続けようとする一方的な視線をふと一瞬外すと、そこには…

 
…常夏の国のまばゆい光と風…鮮やかに咲き乱れる原色の花々…輝きながら連なる孤高の山々…はるかな無音の高空をゆうぜんと舞う幾羽もの鳥たち…そして夜には天空一面にまたたく無数の星々…

 
ここには自然があります。あるがままの姿で。その本来の姿で。そして全てのものがあるがままに進んで行きます。あるがままの速度で。慌てることもなければ、追われることもありません。
 
もしかしたら、それはこの国の人々の姿そのものなのかも知れません…。


街じゅうを彩る花々


 
通りを行き交う人々は誰とでも軽快なあいさつを交し合います。「やぁ!」とか「どうだい?」とか「きぃつけて!」とか…。見ず知らずの他人でも、ただすれ違うだけで必ず簡単なあいさつを交わし合います。ある日私の目の前で一台のポンコツトラックがガタボコ道の路肩を外れて脱輪したとき、行き交う人通りのあちこちから男達が集まってきて、「さぁ、ちょいとひと運動するかい?」などと声をかけ合い、ワッセワッセとあっという間にそのトラックを担ぎ出してしまいました。そして軽快なホーンを鳴らして走り去るトラックを見送ることもなく、男達はあっという間にそれぞれの人通りの中へ消えていってしまいました。
 
旅の途中のバスの車上で隣に座った貧しいおじいさんは、停車場でバスの周りに群がってきた果物やジュース売りの売り子に窓越しから声をかけ、「ふたつー!」と叫んで駄菓子を買うと、当たり前のように私に渡し、「ほれ、食べなされっ!おいしいよっ!」と言ってニンマリと微笑みました。


山の国ホンジュラスの交通手段


 
支援計画の建築現場に向かう道沿いに建つ一軒の掘っ建て小屋には、幼い姉妹が祖母と一緒に暮らしていました。両親に捨てられた彼女たちはゴミに埋め尽くされた廃屋の中で暮らしていて、まるで爆風に吹き飛ばされたような髪の毛をしてボロボロなのですが、例えようもないほど底抜けに明るいのです。牛やロバの隊列に紛れて、山の合間のガタボコ道を建築現場に通ってくる私を見つけると、「まりおぉぉぉー!!!」と大声で叫びながら全力疾走してきます。そして自分達の小屋に招き入れると、なけなしの一文銭を祖母にねだって近くの駄菓子屋まで疾走し、私のためにビニール袋にストローを差しただけのいちばん安いジュースを買ってきてくれるのです。私がバッグの中に忍ばせているペットボトルの飲み物は彼女たちには逆立ちしても買えません。それでも私がそこを通る度に彼女たちは必ず私を招き、時にはヤシの木によじ登りその実を採ってジュースにして出してくれました。


祖母と暮らす孤児姉妹


 
私が体調を崩し寝込んだ時に、その知らせを聞いたひとりの孤児の少女が、私が間借りしている孤児院の部屋に飛び込んできました。彼女は真剣なまなざしで得体の知れない薬と水を差し出します。その薬には走り書きの手紙が添えられていました。「まりおが病気になって本当に悲しい。でも心配しないで!私たちがそばにいて面倒をみるから!」。私はその薬を飲み干しました。そしてその手紙によって癒されました。

 
彼女たちはまるで生まれたままのような子供たちでした。そしてこの国の多くの人々が彼女たちのようでした。彼らのほとんどは一文無しの生活をしていましたが、その懐は、この南国のどこまでも深く大きく広がって輝いている広大な青空のようでした。

 そして死さえも覆い隠されることなく、あるがままの姿で人々の間を通り過ぎて行きます。人が亡くなると棺は街なかを進み、人も車もバスもみな道を空けます。そして亡骸は多くの人々に見送られながら、ありのままの姿で土葬に附されます。
 
絶え間なく続く殺人事件の生々しい写真は毎日の新聞の一面にありのままに掲載され、誰もが目の当たりにします。年末のある寒い夜、私が滞在する孤児院に隣接する貧しい病院の外の路上で、翌日の診察を夜通し待ち続ける貧しい人々のために、孤児院の子供たちと一緒に炊き出しに行っていた時のこと、病院の正面にひとつの射殺死体が運び込まれました。ポンコツのピックアップトラックの荷台に無造作に横たえられた遺体はそのまま放置され、人々はその周りをぐるりと取り囲み、全く無言のままいつまでもじっと見つめています。ある者はタバコを燻らせながら、ある者は炊き出しで出された熱いコーヒーを持ったまま。そして12月の冷え込む夜空の下で、そのピックアップトラックの周りには全く無音の時間がいつまでも流れて行きます。やがてひとり、またひとりと無言のまま立ち去って行きます。子供たちでさえしばらくのあいだ無言で見つめていますが、やがて「もう寒いから帰ろう」と誰かが声をかけると、帰り道はもう全く別の話に花を咲かせます…。
 
私の目にそれらは、彼ら自身の独自の文化とその人生観を表している光景のように映りました。この広大で豊かな自然に恵まれた大地に生まれ出て、あるがままの姿で生き、あるがままの姿で死んでゆく。そのあるがままに流れて決して留まることの無い時の中に身を委ね、その最も貴く美しい一瞬の関わり合いの中に命を燃やして行く。そんな景色が彼らの中に自然に流れているように感じるのです。


ホンジュラスの主食「トルティーヤ」


"Compartir"「分かち合う」こと

 確かにこの国は深刻な問題をいくつも抱えた、この世界の中で「最貧国」と言われている国のひとつです。この国の人々はその現実がどんなものか嫌というほどよく分かっています。しかし彼らは皆、「この国はムイ・ボニート(本当に素敵)だろ?」と言います。いったい彼らは何をもって「ボニート(素敵)」と言っているのでしょうか?彼らにとって何が本当に「ボニート(素敵)」なことなのでしょうか…。
 
私たち日本からの支援は現地の人たちに心から歓迎されました。私が2年前に現地で請け負った2つの支援計画は、ふた組の貧しい家庭のための家屋建築計画で、いずれも広益性を伴っていなかったために、日本で理解を得ることには多くの困難を伴いました。日本では問題に対する解決策が妥当で理にかなっていること、そしてそれに伴った明確な結果を生じさせることが常に重要視されるためです。この国が抱える貧困などの現実的問題に対峙していく時、それらの点が非常に重要であることは、言うまでも無くこの国の人々自身もよく分かっています。

 
しかし彼らにとってはそれよりももっと大切なことがありました。それは遥か地球の裏側の異国から自分たちの国を訪れ、共に暮らし、共に食べ、共に笑い、共に泣き、更に自分たち自身にとって最も痛手となっている傷口にわずかでも手を差し伸べ、その治療を一緒になって手伝ってくれた「時間」です。それは彼らにとって、自身の問題に対するどんなに妥当で理にかなった解決策を示されるよりも遥かに大切で価値あることでした。
 彼らは"Compartir"という言葉をよく使います。これは「分かち合う」という意味です。彼らにとって"Compartir"(分かち合い)することは人生の中で最も大切なことなのです。"Compartir"(分かち合い)することによって苦境の中から再び立ち上がる力を得て行きます。この"Compartir"(分かち合い)こそが、むしろ自身の力によって自身の困難を乗り越えて行くための最大の力の源となることを、彼らは知っているのです。

 
彼らがそんな風にして生きている姿を眺めているうちに、私の心の中にひとつの想いが湧き上がってきました。「もしかしたらこの国は、本当は世界の中で最も豊かな国なんじゃないだろうか…。そしてこの国の人々は最も豊かな人々なんじゃないだろうか…」。
 
彼らの言う通り「この国はムイ・ボニート(本当に素敵)」なのかも知れません…。

 帰国のために再び立ち寄ったヒューストン空港は、いつも通りひんやりと静まり返っていました。灼熱と喧騒のホンジュラスを背にして、エアコンで調整された冷気に満たされた静寂の空間を、私はシャツとジャンパーで身を覆い、無言と無表情で装いながら再び歩き始めます。交わりの拒絶を前提とする無言の距離感を保ち続けることを、自身の体に強要して行く感覚が再び蘇ってきた時、私はなぜか一瞬立ち止まり後ろを振り返りました。するとそこには、私が見つめ選択してきた道の復路が未だ続いていました。そしてそれは、もはや何を持ってしても決して崩せないほどの強固な姿で、私の心にしっかりと繋がっているのが見えました。私はこの大空港の、冷気に満たされた広大な空間のただ中に立ち止まり、その道をもう一度じっと見つめ返しました…。

 
その道は私にはっきりと何かを語りかけました。私はその声と言葉を聞きました。

 
私は体の向きを戻すと、この大空港の広大な空間の中を、日本行きの搭乗ゲートに向かってまっすぐに歩き始めました。


ホンジュラスの青空

2007年3月21日東京