活動報告 | 一瞬のホンジュラス

一瞬のホンジュラスU-オコテペケの白い家- -2006年-

 ホンジュラスへの旅を続けて今年で3年目になりました。
 
「初めての海外旅行は初恋のように忘れない」という話を聞いたことがありますが、私もこの話の通りにあてはまってしまったのでしょうか。3年前に訪れたその時が、私の初めての海外旅行でした。しかしその初恋は、初恋のままでは終わらないかのように、この国と私との関係は、ただの旅では終わらない何かへと変わっていきました。
 
私の中に確かに流れ始めたその何かに導かれて、今年もまた訪れたこのホンジュラスという国のほんの一瞬の断片を、再び描いてみたいと思います。

赤道上空の熱風

 日本からホンジュラスへ直行する航空便はないので、私はいつも米国のヒューストンに一泊の宿を取り、そこからホンジュラスへ向かいます。10数時間の飛行を終えヒューストンの宿で荷を解くとき、私は毎回、自分の心身が感じ取るひとつの感覚を、不思議な気持ちで受け取ります。私の日本での仕事は年間を通しての出張で、日々新たな街へ移動し、新たな宿で荷を解きます。はるか地球の裏側にある米国にまで旅をし、その宿で荷を解いたにもかかわらず、なぜか私の心身がそこで受け取る感覚は、この日本で荷を解くときの感覚と何も変わらないのです。ヒューストンの空港や売店、乗ったバスやタクシー、その車窓から見る街並み、チェックインしたホテルの部屋、そして人々の姿…。単に彼らが日本人でないというだけで、その他の事々すべてに対して、私の心身は日本にいるときと何の変化も感じ取りません。
 
しかし翌日ヒューストンを発ちホンジュラスの地に立つとき、私の心身と感覚は激しい変化に圧倒されます。機内から一歩出た途端に身体にまとわりつく赤道上空の熱風、雑然とした空港設備、床に穴の空いたタクシーに乗り、まともに走るとは思えないほど車体がひしゃげた長距離バスのゴミだらけのシートに座り、穴だらけの国道を蛇行しながら暴走する。その車窓を飛ぶように流れ去っていく、土と木片でつくられた貧しい家々、そして道端に座り込む半裸で裸足の人々…。
 
それらすべてはまるで問答無用の巨大な圧力のように、毎回この日、私の心身に押し迫ってきます。そしてこう感じるのです。「こんなの無理だ、全く手の付けようがない…。いったい私に何ができるというのだ…」。
 
はるか彼方日本から米国を経て、地球の裏側にまでたどり着いたこの日、私は毎回、その距離よりもはるかにかけ離れた現実の中に放り込まれます。

「あなたにひとつの大事な要望をしたいのです」

 私の今回の旅の目的は、ホンジュラスの西の外れ、エル・サルバドルとグアテマラの国境に面した街オコテペケに、5人の路上生活孤児兄弟のための家を建築することです。現地でこのような子供たちや、お年寄りたちへの支援活動を行っている修道女会のシスターたちの計画に協力する形で、昨年1年間日本で募金活動を行い、多くの方々からの協力を得て、その建築を開始できるようになったのです。
 
1年ぶりに会った5人の子供たちは、シスターたちの支援によって見違えるように落ち着いて、こざっぱりとした風体で現れました。2年前私が彼らと最初に出会った時は、まだ路上生活のころの雰囲気を漂わせていて、鋭い眼光で落ち着きがなく、常にお金を要求し、スキあらば盗み取ろうとしていました。


5人兄弟姉妹。後列左から長女グラシエーラ、次女ソニア、長男オマール。前列左から三女のフロール、次男オスマン


 5人の子供たちは上から長女のグラシエーラ17歳、長男のオマール15歳、次女のソニア13歳、三女のフロール11歳、そして次男のオスマン9歳です。
 
シスターたちが彼らと最初に出会ったのは、長女のグラシエーラがまだ8歳、長男のオマールが6歳の時でした。2人とも裸足で裂けた服を引きずったまま、泥だらけで路上を徘徊していました。シスターたちは彼らを修道院で保護し、体を洗い服を着せ、食事を与えましたが、またすぐに路上生活へ戻ることを繰り返しました。仕事にありつくことのできないこの国の多くの貧困層の男性たちと同様に、彼らの父親にも仕事はなく、酒におぼれる毎日で、子供たちの面倒を見ることはありませんでした。母親も同様でした。家を借りても家賃を払えないので、家族は常に路上を放浪していました。両親をあてにできないグラシエーラとオマールは、3人の小さな妹と弟たちの面倒を見るために、路上で稼いだり盗んだりしたお金で彼らに食事を与えていました。しかしその食事は小銭で買えるお菓子や極めて状態の悪いものばかりだったので、彼らの栄養不足は深刻でした。シスターたちは彼らに衣食住の基本的な生活支援を続け、また学校へ通わせ教育を授けました。
 
おととしの12月、私の滞在中に彼らの父親は酒に溺れたまま遂に路上で死去しました。そして母親も末期の白血病である事が発見され、シスターたちの運営する診療所に保護されましたが、間もなく亡くなりました。シスターたちは子供たちの将来のために、彼らが家族として再びやり直し共に暮らすための家の必要性を感じ、その建築計画を立てましたが、資金のめどは立ちませんでした。オコテペケのシスターたちの施設では、彼らのように身寄りがない上に、病気を持って生まれた乳幼児たちとお年寄りたちを保護して共に生活し、またお金を払えない貧しい人々のための診療所も開設しており、そのすべての施設が基本的に無償なので、常に経済的な困難を抱えているのです。
 
こうしてこの計画は昨年シスターたちから私に託され、私は日本でその資金を集めることに成功し、念願だった家の建築計画が今回実現することになったのです。
 
現地に到着した私は早速計画担当のシスターノエミと、修道院長のシスターカルメンから計画の概要について説明を受けました。その中で彼女たちは私に一つの要望を話しました。「子供たちはあなたのことを深く尊敬しています。自分たちの夢であった一緒に住む家を実現してくれたからです。そこで私たちはあなたに一つの大事な要望をしたいのです。あなたがここにいる間に、子供たちが路上生活の習慣から脱皮するために必要な方向づけを、できる限りしてあげてほしいのです。彼らは依然多くの問題を抱えています。今彼らに必要なのは、正しい方向をはっきりと指し示してくれる尊敬できる大人なのです」。
 
私はこの要望を聞くまでは、今回のこの旅の目的は、託された計画と資金に基づいて建築を完了させる事としか考えていませんでした。しかしそれでは終わらないという事をこの時知りました。この子供たちに対する計画を本当の意味で完了させるための最後の仕事は、このホンジュラスという貧困の地でしっかりと私を持っていました。それは子供たちだけではなく、私自身をも大きく成長させるために必要な新たな挑戦でした。

ソニアとフロール

 私がホンジュラスに滞在中に拠点にした場所は、オコテペケ市からバスで2時間ほど内陸側に入った街、サンタ・ロサ・デ・コパン市にある孤児院でした。そこには36人の孤児たちが6人のシスターたちと共に暮らしており、5人兄弟の中の次女ソニアと三女フロールもそこで暮らしていました。彼女たちと共に暮らす日々の中で、私はシスターたちが私に要望した事々を少しずつ理解し始めました。
 
ある日地元の教会の神父がイタリアから来た夫妻を案内してこの孤児院を訪れた時、ソニアは妹のフロールを連れてこの夫妻に自分たちの不幸な境遇を訴え始めました。フロールは泣き始め、このイタリア人夫妻は深く同情し、わずかながらお金を差し出しました。彼らが帰った後にソニアとフロールは互いにほくそ笑みながら、幾らもらったか数えていました。
 孤児院には外国からの見学者たちが度々訪れましたが、2人は彼らの一団の中で、誰がリーダーで一番お金を持っているか一瞬で判断し、その人に取り入りました。彼女たちは他の子供たちに比べてはるかに野性的でしたたかでした。一般の人々には近寄りがたい雰囲気に満ちた路上生活の男たちにも平気で声を掛け、「おっちゃん、今日の水揚げは幾らさ?」などと聞いていました。
 
三女のフロールは一度私に盗みの技術を披露してくれたことがありました。まだ小さくて愛らしい彼女は、大人に甘えて抱き付くようにして、そのポケットの中の物をあっという間に抜き取ってしまいます。彼女の小さな手は私のポケットの中に全く気配なく入り込み、中の物をすべて抜き取っていました。


三女フロール


 
これらの事々は幼いころから路上で生き延びねばならなかった彼女たちにとって、言うまでもなく死活問題だったはずです。しかしそれらは今はもう矯正されなければなりません。それは彼らに自分たちの家を与えるというこの計画に対してシスターたちが望んでいる、本当の意味での完了でした。
 
私は孤児院の中でソニアとフロールには特に厳しくあたりました。彼女たちがどんなに甘えて来ても、一切与えるという事はしませんでした。ただ労働の報酬としてのみ、わずかながら望みの物を与えました。彼女たちは次第に私に反発し始め、私から離れていくようになりました。自分たちが今まで培って来た処世術が私には通用しないからです。関係が冷ややかになり、彼女たちの事を常に強く意識しているにもかかわらず彼女たちから孤立していく日々の中で、私は非常に苦しみました。甘くすればお互いに楽しく過ごす事ができたでしょう。しかしその時の私にはもうそうする事は許されませんでした。私は彼女たちに対する一貫した厳しさを貫き通しました。それは彼女たちだけではなく、私自身をも厳しく鍛え上げているように感じられました。


次女ソニア


 
また彼女たちの姿は、この国全体の姿を象徴しているようにも思われました。私が仕事を共にしたシスターたちの多くは隣国エル・サルバドルの出身でした。貧困にあえぐ中米諸国の中で、比較的良好な経済発展を遂げたこの国の人たちは、常に勤勉でした。彼女たちは皆一様にこう言いました。「ホンジュラスの貧困は極めて深刻です。具体的な支援が不可欠です。しかし一方で彼らは《手を差し出す》ことに慣れてしまっています。それが彼らの処世術になってしまっています。大きな意味での教育という事も同時に不可欠なのです」。
 
毎年現地で私にスペイン語を教えてくれる大学講師のホンジュラス女性ヌリアは、さらに厳しく自己批判して言いました。「ホンジュラス人はもらうことはしても自分でやろうとはしない。難しい事はやりたくないのよ。いつまでも他人の力で楽に生きようとするわ。結局それは止まない政界汚職と貧困を助長してこの国を破壊するわ。はっきり言ってこの国はかなり難しい国よ。本当に必要なものは、体の外への支援ではなくて、心の中への支援なのよ」。

 
ソニアとフロールと私との間の確執はずっと続いていました。彼女たちは常に他の力をうまく利用して自分の私的な欲望を満たそうとしました。その事を指摘すると言い争いになりました。そして私と同じ視点に立って行動を共にする人間は、シスターたちの他にはごく僅かしかいませんでした。
 
このような子供たちに囲まれてひたすら奮闘を続ける中で、ある時私は孤児院の院長、シスターディノーラにふと漏らした事がありました。「貧しい人々を手伝うというのは本当に難しい事ですね…」。私のその様子をじっと見ていた院長はゆっくりと話し始めました。「その通りです。時に裏切られ、時に水泡に帰し、労を尽くして何ひとつ感謝されません。しかし時にしっかりと実を結ぶ事もあるのです。ただそのためには本当に長い長い時間がかかります。ある聖人は《待たず、望まず》と言いました。私はそのようにして、この仕事を36年間続けて来れました」。


老人施設で働くグラシエーラ


 
多くの困難で手の付けようもない問題に取り囲まれて心がとげとげしくなっていた私にとって、この《待たず、望まず》という言葉は、ひとつの新しい心の置き場所を示してくれたような気がして、ずいぶん気が楽になりました。それはこの貧困という現実と、そこからとめどもなくあふれ出て来る、まるで汚泥のような様々な問題に対峙していく時の、ひとつの極意のようにも感じ取れました。
 
またその時、院長シスターはひとつの興味深い話を聞かせてくれました。彼女がかつて学校の校長を務めていた時、特に高い学力に達する生徒たちの中に、路上生活出身の子供たちが少なからずいたというのです。一般生活を送る生徒たちの中からは、そのような者はあまり出なかったそうです。その話を聞いて私はひとつの事件を思い出しました。
 
5人兄弟の末っ子、9歳のオスマンは初めサンタ・ロサ・デ・コパン市の孤児院の近くに住む親類の家に預けられていたのですが、面倒を見てもらえず暴力も受けていたので、ある朝遂に逃げ出して行方不明になったのです。彼は夕方になって、長距離バスで2時間もかかる姉と兄の居るオコテペケへ現れました。一文無しの彼がいったいどうやってオコテペケまで行けたのか理解できなかった私はシスターたちに尋ねました。すると彼女たちはあっさりと答えました。「彼らにとって路上は自分の家のようなものよ。一稼ぎしたり、バスに潜り込んだりするのは朝飯前なのよ」。
 
かつては長女のグラシエーラや長男のオマールも、隣国グアテマラやエル・サルバドルの国境まで自在に移動して、物を売ったり盗んだ物をお金に替えたりしていたそうです。確かに次女ソニアや三女フロールにも見られるように、彼らは一様に野性的でたくましく、かつしたたかです。そのような彼らに教育の機会を与えると、他の子供たちよりはるかに活動的で独創的な勉強を展開するという事でしょうか。あるいは路上生活という過去を消し去るために、猛烈に勉強して力を身に付けようとするという事でしょうか。何れにせよこの院長シスターの話は、ソニアとフロールの事で日々思い悩み、硬直していた私の心に光を差しかけてくれました。それはこの5人の子供たちに対峙していく時の、私の心のひとつの新しいエネルギー源のようにも思えました。

オコテペケの白い家

 オコテペケでは昨年11月に始まった家の建築が急ピッチで進められていました。日本と違いこの国では設計図も進行計画も何も存在せず、さらにすべての物事がゆっくり進むので、放っておいたらいつまでたっても出来上がりません。日数がかかればその分経費も余計にかかってしまいます。仕事を得られる機会がほとんど無いこの国では、職人たちはわざと工期を遅らせて日当を稼いだりします。そのようにして建築が頓挫した家々があちこちに点在しています。計画担当のシスターノエミは非常に押しの強い人なので、屈強な肉体労働の男たちを見事に束ねて、日々建築を進行させていました。私が帰国する3月までに何としても竣工させる事を目指していました。近所の人々は通りかかる度に、「この家はやけに早く建てているね」と驚いていました。


建築中の家


 
建築現場では5人兄弟の長男オマールが職人見習いとして働いていました。シスターたちは彼を自立させるために、この家の建築計画にあたって、現場の棟梁にオマールを見習いとして使い、職人として育てるように依頼していました。彼は毎日朝8時から夕方5時まで建築現場で働き、夜6時から10時まで夜間学校に通い勉強を続けていました。
 
私は毎日建築現場に通い彼の姿を見ていました。職人として日々成長していくのが目に見えて分かりました。激しい肉体労働に従事する彼の体には、たくましい筋肉が日々盛り上がっていきました。もう、おととし初めて会った時の、路上生活の名残を残したスレた感じのオマールの面影は、どこにもありませんでした。そして何よりも自分たちの住む家を、自分自身の手で日々造り上げているという喜びと意欲が、彼を輝かせていました。
 
家は荒れ地の中に建てられていました。不毛の土地だった場所に、真っ白の頑丈な家が姿を現していました。そしてそこで泥だらけになって喜気として働くオマール。同じ泥にまみれても、もう路上生活のころとはすべてが変わりました。私はこの家の壁に何度も手を触れ撫でながら、働くオマールの姿を眺めました。それはまるで奇跡を見ているようでした。


建築現場で働くオマール


 
建築現場には時々長女のグラシエーラが訪ねて来ました。彼女はオコテペケのシスターたちと共に暮らし、彼女たちが開設している老人保護施設でお年寄りたちの世話をしながら日中働き、その賃金をシスターたちにつくってもらった銀行口座に預金していました。夕方からは夜間学校に通い、看護師になるための勉強を続けていました。
 
彼女は建築中の家を見る度に「信じられない」と繰り返していました。かつては親から見捨てられ路上を徘徊し、飲まず食わずの妹と弟たちのために盗みをくり返していた彼女にとって、この白い美しい家は、夢の中に描くことすらできなかったものでしょう。彼女の人生も現実とは思えないほどに変わりました。病気のお年寄りたちの介護を献身的にこなしている時の彼女の真剣なまなざしからは、ひとりの大人として立ち上がりつつある力強さが光のように放たれていました。
 
シスターたちはこの家の建築計画を通して、5人の兄弟たちを路上生活の習慣から脱皮させ、この国の社会の中で自立した大人として、その役割を果たす者となれるようにさまざまな方策を尽くしていました。それはシスターたちが彼らと最初に出会った時以来、10年近い歳月をかけてひたすら積み重ねて来た、一貫した彼らへの教育でした。そしてそれはこの家の完成と共に、さらに一歩前進しようとしていました。

闇の中の光

 2006年3月2日、遂に家は完成しました。コンクリート製の白い壁に金属製の屋根を載せたその家には、現地の風土・気候に最も適した建材が選ばれ、十分な耐久性を考慮した設計がなされていました。そしてその仕上がりの美しさには、腕の良い職人たちの良心が込められていました。
 
バラバラに暮らしていた5人の兄弟たちは、この日この家で一堂に会しました。地元の神父によって家の竣工を感謝するための儀式が執り行われるためです。次女ソニアと三女フロールもサンタ・ロサ・デ・コパン市の孤児院からバスに乗ってやって来ました。地理的理由から、工事期間中を通して一度しかこの場所を訪れることができなかった2人は、目の前に現れた白い美しい家を見てショックを受けたように絶句していました。ましてやそれが自分たち自身が住む家であることなど全く信じられないという様子でした。いつもならおてんばの限りを尽くす2人は、その日なぜか寡黙でした。
 
身寄りのないこの5人兄弟姉妹たちの門出を祝うために集まった人々は、隣近所の家族一同と建築を終えた職人たち、そしてシスターたちでした。神父は儀式を執り行い、ひとつのパンと一杯のぶどう酒を分かち合うことで、この5人兄弟姉妹たちをこの場所でひとつに結び付けました。そして厳粛な祈りと共に壁に水を振り掛け、この家を清めました。真新しい玄関の鍵も清められ、この日のためにシスターたちが特別に用意した美しい銀のお盆に載せられて運ばれました。そして子供たちがまだ幼いころから面倒を見て来た院長シスターの手から、長男オマールの手に渡されました。そこにはあらゆる希望と夢、そしていくつもの願いと祈りが一緒に載せられていました。


家を祝別する儀式


 
式が終わりに近づいたころ、私は一通の手紙を読むために立ち上がりました。それはこの日のために5人兄弟ひとりひとりに対して私が用意した手紙でした。儀式の最後に私自身が読み上げる事を望んで、あらかじめ神父と院長シスターに願い出ていました。それはこの家の建築計画を最終的に完了させ、この5人兄弟に引き渡していくために、私に委ねられた最後の仕事でした。
 
神を尊び、信仰を重んずるこの国のしきたりに従い、彼らの行く末をその神に託して読み上げました。

グラシエーラ、オマール、ソニア、フロール、そしてオスマンへ

 昨年、神様はあなたたちの家の建築計画を手伝うようにと私に命じました。私たちは誰でも神様の期待に対しては全力で応えなければなりません。ですから私は日本へ帰った後、この計画を完成させるために全力を尽くしました。それはかつて経験した事がないほど厳しく、そして難しい仕事でした。しかし私はその仕事を完成し、自分の義務を果たしました。なぜならそれが人生だからです。

 
今あなたたちは自分たち自身の家を持ちました。これはあなたたちに対する神様のひとつの期待です。ならばあなたたちも私と同じように、その期待に対して全力で応えなければなりません。それはきっとあなたたちが他に経験することのないほど厳しく、そして難しい仕事となるでしょう。しかしあなたたちはその仕事を完成し、自分たちの義務を果たさなければなりません。なぜならそれが人生だからです。

 
残念なことに、あなたたちの家庭は以前に壊れてしまいました。しかし神様は今それをもう一度建て直したいのです。そのためにあなたたちは全員の力をひとつにして、お互いに協力し合わなければなりません。決して自分勝手になってはならないのです。また神様はあなたたちに自立してほしいのです。他の力に頼るのではなく、自分たち自身の力で、自分たち自身の人生を創り上げてほしいのです。そのためにあなたたちは日々たくさん勉強し、そして一生懸命に働かなければなりません。これこそが神様の助けを受ける正しい方法なのです。この家はその目的のためにあります。
 
そしていつの日かあなたたちは何も持っていない人々を助けてあげてください。あなたたちが何も持っていなかったあの時、神様があなたたちを助けてくださったように。それが私の願いです。

 
私はあなたたちのために毎日神様に祈り続けることを約束します。どうか神様があなたたちの人生を導き、あなたたちと共にこの家に住んでくださいますように。

 
こころをこめて:小野健治

 私は手紙を読み終え、それを5つの白い封筒に入れてひとりひとりに手渡しました。ソニアとフロールは泣いていました。
 
私はこの時、遂にこの計画は完了し、自分の仕事が終わったことを感じ取りました…。

 
式が終わり外に出ると、美しい夕暮れはもう終わり、辺りには静寂と共に夜のとばりが降り始めていました。ふと気が付くと、この家に明かりが灯っていました。昨日電気工事を終え、電線がつながれたばかりでした。
 
「あぁ、明かりが灯ったんだ…」。
 
私は荒れ地の闇の中に輝き出たその光を、いつまでも眺めていました。

新たな出発

 帰国の日、私は再び車体のひしゃげたポンコツバスに乗り、空港へ向う穴だらけの街道を蛇行しながらひた走っていました。車窓には、この国の貧困の姿が変わらず途切れず、ひたすら飛び去っていきました。
 
しかしそこにはその姿を見ても、もう迫って来る圧力も恐怖も感じていない自分がいました。見慣れてしまっただけなのかもしれません。しかし私の中では、ここに到着したあの最初の日にはまだ持っていなかった何かを、今しっかりと持っていることを感じていました。それが私に迫って来る貧困の圧力と恐怖をはね返しているのが分かりました。それは子供たちと私自身を大きく成長させた、本当に貴い何かでした。そしてそれは、子供たちのためにも、私自身のためにも、そしてこの国のためにも、大きな可能性を持っていることをはっきりと感じ取っていました。

 
3月のホンジュラスはいよいよ夏の始まりで、日に日に暑さを増して行きます。私が到着した昨年の12月とはもう気候が変わりました。突き抜けるような真夏の南国の大きな青空と風に包まれて、私は再びこの国を出発しました。


夏が近づいたホンジュラス

2006年3月24日東京



ホンジュラス義援金会計報告

2005年2月25日に開設したホンジュラス義援金口座に対して皆様からご入金いただいた義援金の総額は、2005年12月9日の時点(私の現地への渡航直前)において1,049,582円でした。これらの義援金を米ドルに換金し、2005年中3回にわたって総額9,000米ドルを現地へ送金いたしました。(1回目、2005年4月1日、1,000米ドル=108,480円。1ドル=108.48円。2回目、2005年8月22日、5,000米ドル=557,350円。1ドル=111.47円。3回目、2005年12月9日、3,000米ドル=365,340円。1ドル=121.78円。各回送金手数料6,000円。)
当初この建築計画の見積もり額は約6,000米ドルでしたが、2005年中にホンジュラス国内の経済状態は急激に悪化し、建材等の価格の著しい高騰が進み、この見積もり額を維持できなくなりました。総額9,000米ドルの送金はこれらの事情に随時適応させた結果によります。
その後、私の現地滞在中にさらに事態は悪化し、最終的に建築を完了させるために、さらに3,500米ドルの不足が生じました。そのため帰国後、ホンジュラス義援金口座への2005年12月9日以降の入金の中から、2006年3月28日に1,500米ドル(176,100円。1ドル=117.40円。手数料7,000円。)を追加送金いたしました。(なお不足額の残額2,000米ドルにつきましては2006年3月28日に私の私財にて補填させていただきました。換金手数料1ドルにつき2円=4,000円。)
以上により2006年3月28日現在の義援金残高は2,312円となっております。
ホンジュラス義援金口座の通帳コピー及び送金計算資料2通を添付させていただきますので、義援金の入金・送金内容をご確認ください。
皆様のご協力に心からお礼申し上げます。

2006年8月15日東京

※ホンジュラス義援金口座の通帳コピー、及び現地計画担当シスターによる収支報告書の掲載は割愛させて頂きます。