
一瞬のホンジュラス -2005年-
昨年(2004年)の11月中旬から今年(2005年)の2月中旬までの3ヶ月間、中米のホンジュラスという国で孤児院の手伝いをしながら生活して来ました。
おととし(2003年)の11月、青年海外協力隊の隊員として3年間このホンジュラスで働いた経験を持つ友人に同行して2週間この国を訪れて以来強く心を引かれて、この国とその人々の事を知るためにさらに長い時間を過ごしてみたくて、1年間準備をしました。スペイン語を修得し、中米の歴史を学び、各種の予防接種を受け、おととし私を受け入れてくれた現地の孤児院を運営する組織(カトリックの修道女会)と連絡を取り、2004年11月13日に日本を発ちました。おととし一緒に行った友人は都合がつかなかったので、ひとりで出発しました。
ホンジュラスまでの旅は日本から約2日です。途中アメリカのヒューストンで1泊し、翌日、1日1便だけ運行しているホンジュラス行きの飛行機に乗り換えます。赤道よりやや北の熱帯地方に位置し、日本の約3分の1の国土に約650万人の人口を持つホンジュラスは、その国土のおよそ60%以上が山という山岳国です。日本の東北地方をさらに山深くしたような複雑な地形と、熱帯地方独特の深々とした緑におおわれた、豊かな自然の風景を持っています。食卓にあがるほとんど全ての食べ物は、この肥沃な大地が生み出す自然の恵みです。バナナだけでもいくつもの種類があり、いくつもの料理法があり、また日本には無いいくつもの野菜やくだものが溢れるほどに実っています。
飛行機の窓から見おろすホンジュラスの大地は、どんなに見ていても飽きることのない豊かな自然の恵みに満ちています。しかし地上に降りるとそれは一変します…。
これは私が過ごした3ヶ月間という時間の中に見た、ほんの一瞬のホンジュラスの姿のレポートです。
洗礼
現地に到着して1週間過ぎた頃から下痢が止まらなくなり、発熱も始まりました。これは日本から渡航する者の多くが経験することのようです。日本の高度に管理された衛生環境に慣れている体にとって、ホンジュラスの不十分な衛生環境の中では、ごく普通の飲料水にしろ食べ物にしろ、最初は何らかの悪影響があるのでしょう。十分な注意を払っていたにもかかわらず、何かにあたってしまったようです。また現地には家蚊を媒体とするデング熱やマラリアがあり、これらに感染した可能性もあったので、診療所に行って薬をもらいました。
また私が滞在した孤児院ではお湯が出ないので毎回水シャワーをあびていたのですが、お湯につかることに慣れている日本人の体には、これもこたえたようです。現地で簡易電熱器を買って、バケツに汲んだ水を温めて使うようにしました。やがて下痢も熱も少しずつひいて行きました。
またある日、この孤児院を運営する修道女会のシスター志願者のひとりが病気で手術をすることになったというので、病院へお見舞いに行きました。しかし日本の病院や医療レベルに慣れている私にとって、その病院の有り様は驚くべきものでした。私も医療関係の仕事をしているので多少の知識はあるのですが、衛生管理のレベルは極めて低いと言わざるを得ませんでした。使用済みの使い捨て注射針や綿花がそのまま廊下のあちこちに落ちているのです。貧しい人々はこれらを持ち帰り、ぬい針に使ったりしています。これは考えられないほど危険なことです。また古びたX線装置の他には、およそ医療機器らしきものは見当たりませんでした。
さらに医師さえ見当たらないことがあります。私が見舞いに行ったシスター志願者は痛みでひどく苦しんでおり、手術の日にちも決まったので、術後の日のある夜再び見舞いに行ったのですが、「医師が来なかったので手術は無かった」と言うのです。手術は別の日に延期になりましたが、その日も医師は来ませんでした。その間痛み止めの処置をして、ひたすら医師が来るのを待つしかありません。このような患者たちがいつも病院の玄関から通りに溢れて、1日中医師が来るのを待っています。
ホンジュラスで医師になる者の中で、先進諸国の先端医療技術を学ぶ機会を持つ者はごく僅かと聞きました。そのため医療レベルは極めて低いのです。事実、このシスター志願者はごく単純な虫垂炎だったにもかかわらず、ひとり目の医師は手術に失敗し、ふたり目の医師が再度手術をやり直すことになりました。彼女はまだ20歳の学生です。
こんなこともありました。孤児院で暮らしているある子供の親戚が、手術をするために輸血用の血液が必要なので、シスターが私に提供を申し込んだのです。その病院では輸血用の血液は現金で買うのですが、貧しい人々はとても購入できないので、親戚友人へ血液の提供を願うのです。それらの血液はおそらく必要な検査を受けないまま輸血されるでしょうし、その際にどんな針が使われているのかも分かりません。おそらくホンジュラスでの輸血による感染症の発生率は高いと思われます。しかしシスターたちでさえそのような知識は無いので、「これは大切な慈善ですよ」などと言って勧めたりします。さすがに私はきっぱりと断るしかありませんでした。
トーニャ
孤児院の中には、ひとりの障害を持った女の子がいました。彼女の名前はトーニャといいます。彼女の母親は心の病いを持っていて、子供を育てることはできませんでした。父親は殺されてしまいました。残念ながらホンジュラスの社会の中に、障害を持った人々を受け入れるだけの力は無いようです。働き盛りの男性でも仕事は無く、昼間から街なかをうろついている状態です。学校に行き正規の教育を受けることができる子供はごく僅かで、貧しい家庭の子供は家計を支えるために幼いころから働かざるを得ず、読み書きはできません。障害を持った人々は自ずと社会から黙殺されて行くようでした。
私は夕方5時から始まる街の教会のミサ(ホンジュラスではほとんどの人々が基本的にカトリック教徒)へ毎日彼女を連れ出して行ったのですが、初めそれはとても勇気がいることでした。私が滞在していたサンタ・ロサ・デ・コパンという街は、首都から遠く離れた地方都市で、その時私はその街の中のほぼ唯一の東洋人でした。ただそれだけでもとても奇異な目で見られ、時には侮蔑した野次(この国では一般的に東洋人は見下して見られる傾向にある)を飛ばされたりするのですが、さらに障害を持った子を連れて通りを歩くことは、明らかに異質な目立ち方をしました。
彼女は読むことも書くこともできず、言われたこともすぐに忘れてしまうので、毎日ひたすら同じことを繰り返し教えてきかせました。毎日服を着替えること、洗濯すること、学校へ行くこと…。全てができたら教会へ連れて行きました。ひとつでもできないと断固として連れては行きませんでした。彼女は私と教会へ出かけることを最大の楽しみにしていたのでずいぶん努力をしてくれました。それは時に喧嘩になりましたが、私にとってそれは彼女とではなく、別の何かと喧嘩をしているように思えました。
実はその頃、孤児院のシスターたちの間では彼女を専門の障害者施設へ移すという話が持ちあがっていました。シスターたちは彼女がまだ幼い頃からずっと養育して来ましたが、成人年齢に近づいた今、彼女の持つ障害の影響から生じる日々の生活習慣の不安定さが著しくなり、それを持て余し始めていたからです。ホンジュラスという国の現実から、その障害者施設がどんな場所なのかおよそ想像ができたので、私としてはトーニャが自分で身の回りのことをある程度保つことができるということを証明したかったのです。そうすればこの孤児院に残ることができるだろうし、おそらく彼女にとってその方が幸せだろうと考えていたからです。帰国が迫った頃にこれらのことを全てトーニャに話し、努力を続けるように諭しましたが、理解はできないようでした。
私としては、3ヶ月という短い時間の中で、彼女に対して自分なりに出来る限りのことをしてみました。別れ際に、彼女に私の着ていたTシャツと勉強用の新しいノートをプレゼントしました。彼女は大変な喜びようでした。
できればもう1度、彼女とこの孤児院で会いたいと思っています。
12月23日、もうひとつのホンジュラス
その事件はクリスマスを直前に控えた2004年12月23日、その準備のために大勢の買い物客でにぎわうホンジュラス第2の都市、サン・ペドロ・スーラ市で起きました。市内を走っていた1台の路線バスが突然2台の車にはさみうちにされ、複数の男達によって乗員・乗客全員が機関銃で射殺されたのです。女性・子供を含む23名が殺されました。全くの無差別殺戮でした。死体には犯行声明文が巻き付けられていました。犯人たちは、かつてホンジュラスが軍事政権だった80年代初めに、反政府ゲリラとして活動していたグループの名のひとつを名乗っていました。
ホンジュラスでは今年(2005年)、4年に1度の大統領選挙があり、その年には必ず治安が悪化するのです。かつて青年海外協力隊の隊員として3年間ここで働いた私の友人の時代には、大統領選挙の年には、他国の隊員のホンジュラスへの入国は危険のため禁止するという通達がJICA(国際協力事業団)から出されたと言っていました。
事実、この事件をきっかけにしてその後の2週間で、全国各地でさらに50人以上が同様の反政府スローガンを掲げるグループによる無差別殺戮の犠牲になりました。16歳の女の子2人が縛り首にされて、犯行声明文を体に巻き付けられたまま遺体を放置されるという事件も起きました。
事態は一気に緊迫し、サン・ペドロ・スーラ市の市長は軍隊に出動を要請し、街じゅうが兵士と装甲車に埋め尽くされました。ホンジュラスを代表する国民的な高位聖職者は「心を騒がせてはならない」という聖書の句を引用して、全国民へ平静を保つよう促す声明文を全国紙に発表しました。サン・ペドロ・スーラ市を管轄する聖職者は「このままではホンジュラスは南米コロンビアのようになってしまうだろう」という懸念を全国紙に発表しました。
日本に存在しないことでこの国に存在することのひとつは、激しい貧富の差です。政治指導者たちと各界の権力者たち、そして地主や企業経営者などの富裕層が公金のほとんどを私物化してしまうのです。そして公共の福祉は全く放置され、一般国民からは正当な労働賃金に至るまで搾取されます。政界内や企業間の賄賂や汚職は公然のことのように行われます。隣接する中米各国で、これらの著しい不平等に起因して起こった長く凄惨な内戦の歴史に比べて、比較的平穏を保ち続けてきたホンジュラスで、この大統領選挙の時期にこれだけの凄惨な事件が立て続けに起こったことの背景には、やはりこれらの貧富の差と政治腐敗から生じる、激しい歪みがあるように感じます。
一般的な全国紙には連日過激な風刺がのります。クリスマスシーズンには聖書の「3賢者の来訪」をもじった風刺まんががのりました。貧しい家に生まれたキリストを祝うために東方から3人の賢者が宝物を持ってやって来たという物語に代わって、貧しい人の小屋を訪ねて来たのは3人の議員立候補者です。そして両手を差し出してこう言っています。「お前にやる贈り物は何も無い!用があって来たのだ!」。貧しい人の手には投票用紙があります。
また別の風刺では、ひとりの議員立候補者が通りをたむろする不良少年にこう言っています。「おい間抜け!レゲエ野郎にしてやるから俺に投票しろ!」。その少年はこう言い返します。「おまえアホか!お前に投票してやるから俺に教育をよこせ!」。
国民はこれらのことを良く分かっています。自分たちの日々の生活の中にそのまま存在する現実だからです。私の滞在した孤児院の水道工事に来ていた25歳の青年は、「俺は自分の家族以外何ひとつ持ってはいないよ」と言っていました。現地で私にスペイン語を教えてくれた女性講師は選挙事務所の前を通りかかった時、「彼らは食事に誘ってくれたり、プレゼントをくれたりするわ。でも選挙が終わったら2度と来ないわ!」と笑い飛ばすように私に言いました。例えばホンジュラスの投票用紙はA3くらいの大きさの紙に立候補者全員のカラーの顔写真がのっています。そしてその下の投票欄に×印を付けるようになっています。これは有権者のうち、かなりの数の人々が字が読めないか書けないためです。
貧しい子供たちはいつも同じボロの服を着て裸足で歩いています。そしてあからさまにお金を要求し、ときには私のポケットの中に強引に手を突っ込んできます。ホンジュラス国内の唯一の東洋人神父、ベトナムのホセ・チュク・トラン師は新聞のインタビューでこう答えています。
「あの日(12月23日)、事件のニュースを聞いて私は現場に駆けつけました。そしてその流血と惨状を見て、30年前のベトナムをはっきりと思い出しました。まるで時間が戻ったかのようでした…」。
「必要なことは十分な仕事と十分な教育、そして十分な食事です。空腹では何かを考えることすらできないからです。私はそれを良く知っています。私は今、公共の食堂を計画中です」。
新年に発表された信頼できる全国紙の世論調査によれば、「今年のあなたの目標は?」という質問に対して、いちばん多かった返答は、「仕事を見つけること」(33,3%)でした。次いで「より良い教育を受けること」(30,3%)。「この国が直面している問題で最も大きなものは?」という質問に対して、いちばん多かった返答は、「犯罪と安全性」(53,9%)、次いで「汚職」(27,2%)、次いで「失業」(26,5%)。そして「この国で生きることはあなたにとって問題か?」という質問に対して、実に95,4%の国民が「はい」と答えています。
私の帰国が間近に迫ったある日、わたしの滞在している孤児院の女の子の兄2人が殺されるという事件が起きました。強盗に襲われたのです。修道院のシスターたちは私の帰国のために空港までの車と運転手を手配してくれました。私が出国する国際空港は事件のあったサン・ペドロ・スーラ市にあるからです。昨年11月に私がそこから入国したときはまだひとりでバスに乗って来れました。しかし今はもうそれでは危険なのです。
それはもはやニュースではなく、彼らと共に分かち合った彼らの現実でした…。
シスター斉藤を訪ねて
おととし初めてのホンジュラス訪問を終えて帰国した直後、ひとりの日本人シスターと偶然に知り合いました。彼女はフランスに本拠地を置く修道女会で働いている斉藤雅代さんで、私とほぼ同時期にホンジュラスと中米各地に仕事で滞在していたことが分かったのです。私たちは日本で意気投合し、互いに次回の渡航予定を持っていたことから、是非次回は現地で会おうということになったのです。
それが実現したのは今年の1月でした。彼女が私の居る孤児院を訪ねて来てくれたのです。私たちはお互いの体験や感じていることを存分に分かち合いました。互いに日本語を喋るのは数ヶ月ぶりだったので、時を忘れて話しました。共に中米の土を踏んだ日本人としてその心から溢れ出て来る想いは同じで、とても心強く感じました。
彼女を見送ってから数日後に今度は私が彼女を訪ねました。彼女の住んでいる街サンタ・バルバラは、私の街からバスを2本乗り継いで5時間くらいの所にあります。ホンジュラスの街はどこも同じく山間の合間にひらけていて、すそ野を降りるに従って街の中心部になり、山ろくを登るに従って貧しい地区になって行きます。彼女の住居はその山ろくを登った貧しい地区にあり、今の日本にはもう存在しないような悪路を、最後は車も登れないので這いつくばるようにして登りました。
修道院とは言えないごく普通の家屋に、カナダ人のシスター3人と共に彼女は暮らしていました。彼女たちの仕事は教育の普及で、私は早速その現場を見せてもらいました。
ひとつは同じ山中の貧しい人々の家をそのまま借り切って事務所にした「自宅教室」という名のプログラムで、これはラジオを使った通信教育講座です。街の中心部から離れた山間の貧しい地区に住む人々は経済的に困窮しており、子供のころから働かねばならず、正規の教育を受ける機会はほとんどありません。シスターたちの仕事は彼らに教育を受ける機会を作り出すことで、街に出て来ることの出来ない住民にラジオを通じて授業を行い、その学費も格安に設定し、彼らに高校卒業の正規の資格が取れる可能性を与えることです。「自宅教室」はその為の活動拠点で、様々な手続きをするために山間の住民たちが集まって来ます。
私が会ったひとりの30代くらいの婦人は、そこに来るバスに乗るまで3時間くらい歩いて来たと言っていました。おそらく子供のころから働いて15〜6歳で結婚して子供を生んだであろう一般的な貧しいホンジュラス女性の彼女にとって、このプログラムは自分をひとつの枠から飛び出させる可能性を持つ唯一のものでしょう。そのためには1日がかりでも山奥から出かけてくるのでしょう。彼女の瞳は若々しく輝いていました。
もうひとつの施設は貧しい環境の婦人たちを集めて一定期間共同生活をしながら衛生学や栄養学、裁縫など生活を改善するための様々な知識を教えて行く為の寄宿舎です。貧しい婦人たちはそれらの知識を得る機会がなかったために極めて劣悪で不衛生な環境の中で生活しており、それらを原因とした病気の発生や子供の死などに見舞われてしまいます。そのような環境の中に生きる彼女たちに知識を与えることがこの施設の目的です。
いずれの施設も4輪駆動の専用車でしか走れない悪路を分け入った山奥にあります。それはこれらの恩恵を受けるべき人々がそこに居るからです。しかしそれはまた危険をも意味しています。ホンジュラスでは街の中心部から山間部に入って行くに従って法治環境から外れ、社会福祉の一切行き届かない全く別の世界になって行きます。そしてそこに暮らす生活困窮者の中には、強盗を働く以外に金銭を得る手段が無い人々もいるのです。事実、シスターたちの住居にも強盗が押し入り、車と金銭を盗まれてしまいました。ホンジュラス人でさえ立ち入ることを好まない山奥に明らかな先進国の外国人女性が4人で暮らしているということは、一部の貧困層の標的になってしまうことがあるのです。
しかしこの国で強盗に襲われて殺されなかったのであれば、それは全く幸運だったと言わざるを得ません。この国では誰でも銃を持っていて、強盗は相手を殺して金品を奪うのです。その為にどの家の窓も鉄格子で護られ、高いへいの上には砕いたガラス瓶や釘が突き出し、銀行や高額商品を扱う店の前には機関銃を構えた警備員が必ず睨みをきかせています。彼女たちの仕事は本当に命がけなのです。
またシスター斉藤は音楽教師でもあるので街の教会の聖歌隊の指導もしていました。しかしホンジュラスの聖歌や一般の歌にはどれも楽譜というものが無く、ただ人から人への口伝(耳伝?)とノリだけで全てが成り立っています。そのため同じ歌でも人によって歌詞やリズムや旋律が微妙に違うのです。しかしそんなことはホンジュラス人にとって何の問題にもなりません。多少の違いは気にせず、ただその場のノリひとつで全てが始まり終わって行きます。そんな彼らを何人か集め、ひとつの歌をひとつの調子に合わせて歌わせるということは至難の業のようでした。イタリアで専門の音楽教育を受けたシスターは悪戦苦闘しながらも、彼ら独特の変則リズムと不思議な哀愁を漂わせながら転調して行くラテンの聖歌を200曲以上も楽譜に残しました。それらはホンジュラス人の心とその国のことを形と記録に残し伝えて行くための貴重な資料になるに違いありません。
サンタ・バルバラからの帰りは久々の中米ひとり旅でした。日本人には想像もつかないようなポンコツバスは夕暮れの中を行きました。閉じない窓から吹き込んでくる南国の生々しい熱風はやがて少しずつ心地よさを増して行きました。ラジオからはシスターが格闘していた不思議な哀愁を帯びたラテンの旋律が漂い続けていました。私はホンジュラスの山々を見事に染めて行く夕陽を眺めながら、サンタ・バルバラのシスターたちのために祈りました…。
グラシエーラとその家族
私が滞在していた街サンタ・ロサ・デ・コパン市から2時間くらいバスで走ると、隣の県オコテペケに入ります。そこには私が手伝いをしている孤児院と同じ修道女会が運営する「聖母の家」という名の別の施設があります。ここでは栄養失調の乳幼児たちと病気を患っている身寄りの無いお年寄りたちを保護し、その世話をしています。またお金を払えない貧しい病人たちのための無料診療所も開いています。診療所といっても小さな検査室と薬剤室、そして看護師がひとり常駐しているだけで医師はたまにしか来ません。それでもお金を払えない病気の貧しい人々にとっては唯一の拠りどころで、無料で薬がもらえるだけでも十分に必要を満たしているようでした。
しかし私がそこを訪ねた翌日に強盗が入りほとんど全ての薬剤を奪われるという事件に見舞われてしまいました。被害額は莫大で施設は大きな財産を失いました(ホンジュラスでは薬は非常に高価なものです)。この国では金目のものがあると分かればすぐに強盗事件が起きるのです。もともと経営的に厳しい事業である上にこの事件が重なって、施設の院長シスターは頭をかかえていました。会計責任者のシスターは、自身も病気でその治療費がかさむにもかかわらず、それを割いて施設の運営にまわしたようです。
貧しい人々に限らず、シスターたちもギリギリの生活を続けていました。
また「聖母の家」では別の支援も行っていました。施設にはグラシエーラというひとりの女の子が住み込みで働いていて、乳幼児たちやお年寄りたちの世話を良くこなしていました。彼女は病気で働けない父親と病気の母親を持ち、4人の幼い弟と妹たちの面倒を見るために物乞いをしながら路上に寝泊りしているところをシスターたちに助けられました。7歳のころから9年間この生活を続けてきた彼女に家は無く、廃屋になった小屋の中で、兄弟姉妹たちは1つの壊れたベッドに5人で寝ていました。
いま彼女は「聖母に家」で働きながら学校へ通い習ったことをそのまま弟と妹たちに教えています。私は彼女たちと一緒にクリスマスを過ごしました。とても明るい子供たちで踊りが上手で、私にいくつものラテンの踊りを教えてくれました。私がうまく踊れないでいるのをおもしろがっていました。
しかしクリスマスが終わった12月26日、彼女たちの父親は食べ物を見つけに出かけた先で心臓麻痺で倒れ、そのまま死んでしまいました。シスターたちはこの家族と子供たちの将来のために一軒の家を建てる計画を立て、地元の有志が格安で土地を提供してくれるという約束を取り付けましたが、強盗に入られた経済的打撃は大きく、計画は宙に浮いてしまいました。
さらに私の帰国直前になって彼女たちの母親の病気が末期ガンであることが分かり、余命1ヶ月であると判明しました。彼女の妹2人は私が滞在した孤児院で引き取ることになりました。2人の弟のうち1人はコーヒー工場に住み込みで働き、もう1人の幼い弟は「聖母の家」で預かることになりました。
もはやこの5人兄弟たちに家も身寄りも何もかもなくなってしまいました…。
これも私が見てきたホンジュラスの現実の姿のひとつです。
自身に突きつけられたホンジュラス
そして私自身もついに盗難にあってしまいました。帰国用に確保しておいた現金800ドルを全額盗まれてしまったのです。私が生活している孤児院の私の部屋から盗み出されました。シスターたちからはいつ如何なる時にも必ず鍵を掛けるようにという注意を受けていました。それはまるで子供たちを信用していないことのように思えたので全く不本意だったのですが、私は守っていました。しかし実際にそれは起きました。
現金がなくなっていることに気付いた夜、私は大変苦しみました。私の中では犯人の目星がおよそついたからです。その子はこの孤児院の卒業生で、いまは街でひとりで暮らしており、1歳の子供を連れて度々この孤児院に遊びに来ていた20歳の母親でした。その日の午後、私が自分の部屋の近くで彼女の子供の面倒をみている最中にスキをねらって盗んだようです。
その夜、彼女のことをシスターたちに告げるまで私は本当に苦しみました。私の中で、彼女を疑いたくないという気持ちと、疑うまでもない事実がぶつかり合いました。
しかしそれを知ったシスターたちの行動は素早いものでした。すぐに車と運転手を手配すると、躊躇して明朝まで待つことを提案する私を一喝して夜の街へ飛び出して行きました。「彼女は今夜のうちに全ての現金を物に変えてしまいます!今夜でなければ取り戻せません!」。
シスターたちが帰って来るまで私は大変苦しみました。たくさんのことを考えました…。「これは彼女が悪いのではない、この国が悪いのだ…」「彼女を赦してあげよう、責めてはいけない…」。私は取り乱した気持ちを収めることができませんでした…。
やがて夜半過ぎになってシスターたちは帰ってきました。そして私は孤児院に隣接する教会堂の中へ呼ばれました。院長シスターの手には私の現金800ドルがありました。彼女の家にシスターたちが着いたときはじめは否定したそうですが、問い詰めて行きついに白状させたそうです。
このことは私に少なからぬショックとダメージを与えました。もし銃を突きつけられて奪われたのであればまだ納得できたでしょう。しかし身内のような子からスキをねらって盗まれたことを私はなかなか受け止めることができませんでした。私は自分の気持ちを納得させようとしてシスターたちにひたすら問い続けました。「彼女はお金に困っているのでは…?」「夫はちゃんと働けているのですか…?」。
私のそんな様子を見ていた院長シスターは、わたしの目をしっかり見つめてこう言いました。
「マリオ、よく聞きなさい。決して彼女に同情したりお金を与えたりしてはいけません。彼女はどろぼうなのです。私たちのミッションは簡単ではありません」。
私はホンジュラスという国の現実と自分の心の中の感じ方との段差を、様々な角度から一気に見せつけられたような気がしました。そしてそれは私の体の中にむちで打ち込まれたかのように入って行きました。 それはこれからの私に与えられたひとつの宿題のように感じました…。
エルサの手紙
3ヶ月という時間はあっという間に過ぎて行きました。おととし私が最初にここを訪れたとき、それは私の初めての海外旅行でした。そしてスペイン語は一言もしゃべれませんでした。たった2週間という短い訪問でしたが、私の心を突き抜けて行った何かに向かって私が動き始めるには、それで十分な時間でした。再びこの場所へ戻って来ることだけを目指して、昨年1年間の全てをついやしたと言っても過言ではありませんでした。
そして私は再びここへ戻ってこの地に立ちました。たったひとりでこの地に再び立ったとき、私は万感の想いにつつまれました。いったい何が私をここまで連れて来たのだろうかと…。
帰国する日の朝、私の部屋のドアの下に1枚の手紙が置かれてありました。それはあの障害を持った子トーニャの姉エルサからのものでした。彼女自身も心の安定を保つことが難しい子で、私が滞在した3ヶ月の間ずっと不安定な状態が続いていたので、私たちはほとんど会話をすることも交流を持つこともありませんでした。
その手紙にはこう書かれてありました。
「…たとえ100人の友だちを持ったとしてもあなたのことは決して忘れないわ。だって私はあなたの中に、本当の友だちというものが何かを見つけたのだから…」
私はこの3ヶ月の間ホンジュラスという国で出来る限り生きてみました。ただそれだけでそれ以上のことは何ひとつできませんでした。彼女は私の中にいったい何を見たと言うのでしょう…。
しかし私は彼女のこの手紙を読んだときに、私のこの3ヶ月の間のホンジュラスでの日々の全てを受け取ったような気がしました。それはおととし初めて私がここを訪れた午後から今朝に至るまで、ずっと私を押し続けて来た 「何か」 でした。どんなに過酷な現実があろうとも、それは私の中の決して揺らぐことのない不動の 「何か」 なのです。
一言も言葉を交わすことのなかったエルサが一言だけ話してくれたその言葉は、私の中で確かな道しるべとして1本の道を指し示してくれているように思えるのです。
まだ子供たちが寝ている早朝に出発する私は、廊下で朝食の下ごしらえに向かうエルサとすれ違いました。「エルサ、ありがとう」と声をかけると、彼女はにこりと微笑みうなずき、そのまま調理場の中へ消えて行きました…。
私は行くべき道を確かに進み始めていることを確認して出発しました。
2005年2月23日東京
