No Digas “Adios”−「さよなら」なんて言わないで− -2004年-

昨年(2003年)11月、中米のホンジュラスという国へ2週間ほど旅して来ました。以前、青年海外協力隊の隊員としてこの国で働いていた友人と共に、彼が派遣されていた小さな女子孤児院を訪ねることが目的でした。そこにたどり着くまで日本から2日かかるこの遠い国への旅は、海外旅行が全く初めての私にとっては、とても大きな冒険でした。
ホンジュラスはメキシコと南米大陸の間、赤道より少し北に位置し、国土は日本の約3分の1、人口は約650万人、とても貧しい国です。国境を接した3つの隣国、グアテマラ、ニカラグア、エル・サルバドルでは近年まで長く激しい内戦が続き、ホンジュラスにもこれらの紛争の影響が様々な形で及んでおり、今でもそこに残っている独特の喧騒感は、私にとっては正にカルチャーショックでした。
最初に降り立った首都テグシガルパの街角には機関銃を持った兵士が立ち、裏通りの家では玄関が頑丈な鉄扉でできており、呼び鈴を鳴らすと小さなのぞき窓が開いて、中から様子をうかがいます。ひと気のない通りの商店では鉄格子越しに買い物をし、街行くほとんどの車やバス(30年くらい前のボロボロの日本車ばかり)は、ガラス全面に真っ黒のフィルムをはってあり、中に誰が乗っているのか分かりません。貧富の差は激しく、廃屋に住んでいる一家もいれば、機関銃をかまえた私設警官が門を衛る豪邸もあります。
それらは生まれて初めて経験する、全身に迫ってくる「危険」の感覚でした。
私たちが訪ねた女子孤児院はホンジュラス西部の街、サンタ・ロサ・デ・コパン市にあり、首都から長距離バスで1泊2日の田舎です。そこには首都のような喧騒感はなく、石畳の通りに白い土壁と赤い屋根瓦の平屋の家々(沖縄のような)や、街角につながれて休んでいる荷物を背負った馬やロバ、そして見たこともない花々や鳥たちの憩うやさしい街でした。

小高い丘の街角にある目的の女子孤児院は、鮮やかな南国の色に塗られた壁に囲まれて建っていました。カトリックの修道女たちが運営するこの孤児院の中で、52名の子供たちが4つの大部屋に分かれて暮らしています。小さなベッドと自分の服以外何ひとつ持っていない彼女たちは、2台の自転車と2つのボール、それにいくつかのぬいぐるみとおもちゃを上手に使い分けて遊んでいました。
彼女たちが孤児になった理由は様々で、貧しさが原因で生まれて来ても育ててもらえなかったため、あるいは私生児のために捨てられた子、また内戦中に親を殺された子もいました。しかし彼女たちの表情と性格は皆一様に明るく開放的で、すぐに私のことを「マリオ!(私のクリスチャンネーム)」と呼び始めます。
着いたその時から、私はこの呼びかけの洪水の中にあっという間に包み込まれてしまいました。

彼女たちの毎日は「生活」そのものでした。毎日の仕事を自分たち自身で自然にこなして行きます。年齢が上のお姉さんたちは子供たち全員分のパンをこねて、薪の石かまどで焼き、3回の食事を毎日作ります。洗濯は小さな子でもそれぞれが洗濯場で水を汲み、石でできた洗濯板で洗います。1日に3〜4回は当番の子供たちが施設の全てを掃除します。6〜7歳の子供たちでさえ乳幼児の孤児院に手伝いに行くと、赤ん坊を抱き上げ、あやし、服を着せ替え、しもの世話をし、椅子に座らせ、食事を食べさせ、自然に母親のようになります。

しつけも子供たち同士で自然に身に付けて行きます。わがままは互いに許しません。3歳くらいの小さな子がおやつにもらったみかんをもう少し欲しくて、私の分をねだった時に、6歳くらいの子が来て、「自分の分はちゃんともらったでしょ!それはマリオの分よ、ダメッ!」と目の前で叱りました。もちろん皆がそれぞれの学校へもちゃんと通っています。彼女たちは皆とてもたくましく、そして優しい子供たちでした。
私の目には、彼女たちは「孤児」というよりも、「姉妹」のように見えました。そしてそこは「孤児院」というよりも、「家庭」でした。
彼女たちの心をしっかり支えている「何か」があるのを感じました。
施設内のどこにいても、誰かが何処かから「マリオ!」と叫びます。そして走って来ては何かして遊んだり、仕事を手伝ったりするのです。子供たちはありのままの私を受け入れてくれました。ただ私がそこにいるだけで喜んでくれました。わたしはいつの間にか子供たちと駆けずり回り、転げ回って遊んでいました。それは生まれて初めて私に起こった何かの変化でした。「愛される」という言葉は知っていましたが、それがどういうことなのか初めて体験した気がしました。そして「自分を愛する」ということがどういうことなのかも初めて分かった気がしました。彼女たちと生活する中で、それは互いに分かち合ったただ一つことでした。そしてそれが全てでした。
別れの日が近づくにつれて、彼女たちは皆言い始めました、「どうして帰るの?」「もっといられないの?」「次はいつ来るの…?」。みんな本気でそう訪ねます。
私は彼女たちのその「本気」の奥にあるものを全身で感じ取り始めていました…。

日本に帰る前の日に夜、子供たちは小さな送別会を開いてくれました。私たちの目の前に貼られた手作りの小さなポスターには「”さよなら”じゃないよ、”またすぐに”だよ」と書いてあります。そしてひとりの女の子が前に出てあいさつを始めました。彼女はこう言いました。
「わたしたちはみな親からの愛情を受けられなかったわ。だからフミ(友人)とマリオがこうして遠くから私たちに会いに来てくれたことは本当にうれしい。私たちにとってシスターたちはお母さんで、フミとマリオはお父さんなの…」。
そして私たちの前でひとつの詩が朗読され、プレゼントされました。それはこの孤児院のひとりの女の子が私たちのために書いてくれた詩でした。

No Digas "Adi?s"−「さよなら」なんて言わないで−
まだ心は空っぽのままで
何も言葉にできません
ひとつの痛みを感じています
それはわたしの心だけが知っている何かです
あなたがいない寂しさで
もう歩き続けることができません
悲しくて息さえできない
あなたなしで進んでいけるのか分からないから
「さよなら」なんて言わないで
お願い、あなたに伝えるお別れの言葉は
どうか私に言わせてください
「さよなら」なんて言わないで
それではあなたに返事ができないから
わたしの想いはどこか遠い世界をさまよいます
伝えられないままの言葉が遠くさまよって行くように
お願いどうか”友だち”なんて呼ばないで
苦しくてもう生きて行けなくなってしまうから
ただもう一度、もう一度だけ
あの言葉をあなたに伝えさせてください
そして私はもう永遠にその言葉を変えることはありません、なぜなら…
なぜなら、それはあなたが望んだ言葉だから
「ありがとう、心からありがとう」
−私たち全員の全ての愛情をこめて−フミとマリオへ
そして出発の日の朝、まだ夜が明ける前、午前4時ごろ、私たちの寝ている部屋の外から突然歌声が聞こえ始めました。起き上がって外を見ると、子供たちが私たちの部屋の周りを囲んで、別れの聖歌を歌っているのです。私たちの名をかかげ、神の祝福があるようにと歌っています…。
私は壁にもたれたまま絶句し、友人はベッドの中で泣いていました。
そのとき私の心の中に起こったことを言葉にすることはできません。それは決して忘れない光景です…。
私は何かとてつもないものをもらって帰って来ました。私はただ会いに行っただけです。何ひとつ彼女たちに提供するものなどありませんでした。
しかし彼女たちは、私から私の全てを受け取ってくれたのだと思います。そして彼女たちは、彼女たちの全てを私に与えてくれたのだと思います。
わたしが何処かへいくとき、そして生きて行くとき、持って行くただ一つのものを見つけた気がしました。それは私自身を生命そのものにしてくれる”何か”でした。そして全ての人々に伝わって行く”何か”に満ちていました。
「私はホンジュラスで神様に会って来たのかもしれない…」。
いま、そんな気がしています。

2004年1月27日東京
